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肉塊と雨とラブソング

恋愛小説を書きました


 傘を持っていたのに、雨宿りをしていた。
 理由は思い出せない。


 ***


 バス亭に人はおらず、庇もなかったので、私は近くの家の軒の下で雨どいから垂れた滴がぼたぼたと足元の小石を叩くのを見ていた。
 雨は細く長く降り続いていて、雲に覆い尽くされた狭い空は刻一刻と暗くなっていく。そんな時間じゃないのに。雨足は弱まりも強まりもせず、ただ一種の義務感を思わせるほどに黙々と地面に波紋を描き続けている。
 不意に、路地の奥からバシャバシャと足音がした。
 視界の端に駆け込んできた男は同じ庇の下に飛び込むと、はぁーッと一息ついて言った。
「すごい雨っすね」
 私はそうですね、といったようなことを言ったと思う。よく覚えていない。というのも、私はその時、狭い道路を挟んで反対側の排水溝の傍に倒れている、犬の死体を見ていたからだ。
 前足をこちらに向けてべったりと倒れ尽くす犬の長い毛が、水の流れに張り付いている。鼠か何かに食われたのかあちこちが破損して肉が剥きだしており、特に前足の片方は関節から足先まで骨が露わになっていた。下半身は千切れているのか、それとも排水溝に落ちているのか、ここからでは分からない。
「死んでる」男は言った。嫌悪はなく、ただ言葉にしてみたような具合だった。
 私は答えなかった。針のように強く打ちつける雨のたび揺蕩う犬の毛をただ見ていた。
「勿体ないなあ」彼は私が居ようと居まいと気にならないといった調子で言った。「皮以外はみんな食べられるのに」
 私は男のほうを見た。若い男で、髪は錆びついた鉄のような色をしていた。半袖のシャツと、黒いスラックス。ジッと犬のほうを見ている。
 彼は突然こっちを向いた。目が合った。
「本当ですよ?」
 そして首を不自然に傾げると、私の腕を掴み、唇にキスをした。
 果物の熟と腐敗の間に近い甘臭い香りが口の中に広がった。粘質の、植物の根のようなものがどろりと捻じ込まれ、同時に私の顔の上で彼の唇が外側に向かってめくれていくのが分かった。厚い肉質が顔を覆った。粘液は舌に甘さと不自然な熱をなすり付けながら喉を舐め、くの字に折りそうになった身体は腹まで肉が捲れた男のぬるぬるした襞に押し返され、彼はえづくようにもと顔だった部分から喉を流れ落ちていく。吐き気を催し、込み上げた胃液をズルズルと啜る感覚に再び上がってきた昼食を胃の腑まで追って吸い尽くす震動で内臓がずずる、ずずると震える。頭が苦しい。頭皮にまで粘液が染み込むようだ。私の身体はもう殆ど肉塊に覆われていて、腕は肉の襞でぐにゃぐにゃになっていた。曲がるはずのない方向に骨ごと曲がっているのがありありと感じられた。軟体人間になったようだった。
 頭が苦しい。止めていた呼吸は限界だった。酸素を求めて急激に広げた肺にどっと粘液が流れ込み、気管支の枝に絡みついた。咳き込む隙間はなかった。痙攣に近い反応のほどに肉壁も激しく震えた。気が遠くなる。甘臭い粘液は下腹部のあたりに溜まっていくように感じたが具体的にどのあたりにあるのかはわからなかったしいったい自分の身体がどこまで取り込まれているのかもわからなかった。ただ熱、熱熱熱熱熱熱い熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱熱
 脳が茹り、内蔵が一瞬で蒸気と化すような激しい熱だった。一瞬だった。いやまだだ。私の身体は溶けている。臓器を臓器とし筋を筋とする秩序が熱と掻き混ぜる根の先の震えでどろどろになる。瞼が捲られる感覚があった。無数の根の先がもはや痛覚で痙攣する肉をほとんど残さない私の瞳を球体として捉えてずり抜け、視神経を伝って駆け上がっていく。眼球はすぐにぐずぐずと形を無くして啜られた。頭を掴まれている。途端、後ろに向かって永遠に落下していくような感覚に陥った。肉塊の最中に揉まれながら私は永遠に落ちていく。落ちていきながら脳の膜を根が探りとろとろに揉みほぐしていくのを黙って見ている。意識はぐちゃぐちゃの断片になる。ポタージュのようになった私の脳髄は髄の淵まで攫われ瞳からぢゅるぢゅると吸い出されていった。
 捻じ曲がった手足は皮と骨の間を肉に変えて粘液と根が蠢き、骨の内側の髄までぐるぐると到達すると骨はてんでばらばらになって肉襞の付け根に埋め込まれた。しゃぶられている。吸い出された髄を伴って粘液は増大していく。ジュースのようになって皮に溜まった内臓は下腹部から太い根に吸い出され、もはや私の部分は皮のほかには脊髄しか残されていなかった。ぎゅっと捕まえられた脊髄が波打つ肉襞に解さればらばらになり、継ぎ目の軟骨から肉塊の全身全霊で啜り出されていくのに成すすべもなかった。肉塊は吸いつくたびにぶるぶると震え、私の身体はついに骨の一片までその中に埋め込まれてしまった。
 私は落した傘を拾い上げ、もう全身で肉塊と化していた彼が黙々と私の身体を消化していくのを眺めていた。牛歩を進めるなめくじのように波打つ襞の隙からごっそりと黒い塊が排出されていく。毛と、皮だ。彼は確かに皮以外全部が食べられることを私に証明した。
 襞は収縮し、折りたたまれ、長い時間をかけて小さく固まっていった。雨は小降りになっていた。それは最後にどこからともなく肌色の装甲を引き出し、スーツの前を閉めるようにぴったりと胸から股にかけて皮を閉じ、むくむくと手足、それから頭と赤錆色の髪を広げて人間の形に戻った。そして私の皮と一緒くたで粘液にまみれた衣服を拾い、べっとりさせたまま着なおした。
「ほら……」そして足元の水溜りに広がる私に言った。「ホントでしょ」
「そうですね」
 私は隣で言った。彼は勢いよく振り向いた。奇しくも出会ったときと立ち位置が入れ替わった。私が軒の端。彼は中。
「どうして傘を持っているのに、雨宿りをしているんですか」
 私はその理由を持っていた。しかし、どう頑張っても思い出せなかった。
「思い出せないです。あなたに脳みそを食べられてしまったから」
 私が言うと、彼は唇を捲り上げ、笑った。

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