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無題

 僕は小さい頃からおばあちゃんの作ってくれるクッキーが大好きだった。岩のようなチョコチップのごろごろ入った大きなクッキーだ。甘くて、サクサクして、ミルクの旨味とバターの風味が絶妙なハーモニーを醸し出している。ひと口食べれば口の周りがクッキーの粉だらけになって、そのおいしさで僕は一日のいやなことを全て忘れられた。工業地帯で両親を亡くして以来、ひどく落ち込んで、根の暗いのや親のいないのでクラスメイトから苛められていた僕のよりどころはおばあちゃんのクッキーと、生地の香りのする皺だらけの手のひらだけだった。
「ウィル、またあのクソガキ共に殴られたのかい」
 僕は毎日、メソメソしなからおばあちゃんのいるキッチンの勝手口へ帰ってきた。
 おばあちゃんは黙ってクッキーを焼いて、僕にくれた。
「ほら、このクッキーを見てごらん。普通のと違うだろう」
 その日、おばあちゃんの見せてくれたクッキーは、素晴らしい焼き色の黄金比によって、まるで真鍮のような輝きを秘めているように見えた。おばあちゃんの手のひらの上に乗っかった焼き立てのそいつは、まさに黄金のクッキーだった。
 僕はそれを食べた。いつものクッキーだけど、これ以上ないというほどおいしかった。思わず涙がこぼれた。おばあちゃんはミトンをはめたままの手で優しく僕の頭を撫でた。
「時たまにこういうクッキーができることがあるんだよ。ナイスなおばあちゃんの、特に素晴らしいクッキーがね。クッキーは人を幸せにするのさ」
 幼い僕は幸せに胸を詰まらせ、噎せながらクッキーを頬張った。
 
 
 僕は大人になっても、あの日のクッキーの味を忘れることはできなかった。
 仕事で失敗するたび、おばあちゃんの渡してくれた焼きたてのクッキーのことを思い出す。あのカリカリサクサクとしてしかし頑なでない優しい感覚を。
 社会に出るのは易しいことではなかった。僕は努力をして、信頼を勝ち取り、今まで僕を虐げてきた連中よりずっといい会社に就職した。それでも心は満たされなかった。仕事、仕事のための仕事、仕事のための仕事のための仕事、毎日同じことの繰り返しだ。これをいくら積み重ねてもその先に見える風景はなにもなかった。つまり僕は疲れていたのだ。
 そんなとき、実家のおばあちゃんから小包が送られてきた。
 おばあちゃんと離れて暮らすようになってからもうどれほど経つだろうか? そういえばおばあちゃんと連絡を取ったのは何度ぐらいだっただろうか、はじめの頃はたまの休みには必ず顔を見せていたのに、近頃仕事詰めでめっきり会えなくなっていた。
 小包を開けると、中には湿気たクッキーが収まっていた。
"たまには電話ぐらいしなさい"
 メッセージカードは配達の揺れで箱の角のほうに追いやられている。
 僕は久々に、泣いた。クッキーを食べながら泣いた。
 そして決意した。この世界には幸福が足りない。クッキーが足りない。ささやかな幸福、ほんのひと時でもクッキーを齧り、大好きな人達と連絡を取るための時間が失われている。これは我慢ならない危機的状況だと感じた。誰が無機質なブロックを積み上げるだけの人生に満足できるだろう? 僕らにはクッキーが必要なのだ。
 僕は仕事を辞めた。そしてたくさんの小麦粉と砂糖、バター、ミルクを買って、クッキー作りをはじめた。
 
 
 だがそれは、一夕一朝のレシピと、遠い昔の思い出だけで成せるものではなかった。
 僕の焼くクッキーは、時に固すぎた。湿り過ぎていたことも、ほとんど真っ黒になってしまった事もあった。それでいて中は生焼けということもある。チョコチップは炸裂弾のようにはじけ飛んだ。とても食える代物ではなかった。僕は最初に作ったクッキーの束を、ほとんど食べることなく捨てざるを得なかった。
 僕はおばあちゃんに助言を求めた。電話を掛けようとしたが、恥ずかしかったので、小包で作ったクッキーを送ることにした。おばあちゃんからはすぐに返事が来た。そこにはクッキーの簡単なレシピ、焼き方のコツとアドバイス、それから"時々は遊びに来たっていいんだよ"の文字。
 僕は考えた。考えて、荷物を纏めた。そしておばあちゃんの待つ、白い壁の家へと向かった。
 
 
 おばあちゃんは僕の想像したよりずっと小さくなっていたが、変わらぬ笑顔で僕を迎えてくれた。僕はさっそくクッキー作りを教えてほしいとおばあちゃんに頼み込んだ。それから特訓が始まった。
 特訓は厳しかった。そこには床みがきや煙突掃除、ゴミ出しや買い物の荷物持ちなども含まれていたためだ。だが僕はそれを謹んでこなした。おばあちゃんは嬉しそうだった。
 やがて、インスタント生活でほとほとだめになっていた僕の舌は、おばあちゃんの田舎風ミネストローネで少しずつ失われた味覚を取り戻し、日曜大工や古いヒューズの交換などでプラモデルの組み立てに夢中になっていた頃の指先も思い出したためか、クッキー作りの腕は格段に上がった。とはいえ食べることが苦痛でなくなり、なかにはおばあちゃんもにやっと笑うようなうまくいったものがたまにある、ぐらいだったのだが。それでも僕はまったく諦める気はなかった。うまくいったクッキーの場合を研究し、小麦粉とミルクの配分からオーブンの温度、生地をこねる角度まで日夜研究を重ね、ついにはおばあちゃんと茶飲み仲間の集うホームパーティで「これね、うちの孫が焼いたのよ」とささやかに自慢して貰えるまでに至った。
 
 
 そんなある日、僕がいつも通りオーブンから鉄板を取り出した時、クッキーに異様な変化が起こっていることに気が付いた。
 八枚のクッキーを同時に焼いたはずが、そこにはたった一枚の大きなクッキー塊のみが存在していたのだ。
 ほどよい焼き色で、大きさや、吸収合併した経緯のことさえ考えなければ、かなりの成功作と言えただろう。
 僕は首を傾げながら、巨大クッキー塊をつついてみた。
 するとクッキー塊は突然ピシリと音を立てて割れてしまった。脆い。見た目以上に。
 しかし本当に不可思議だったのはここからだった。
 たしかに罅が入ってパックリ割れてしまったはずのクッキーが、元に戻っている。
 目がおかしくなったのかと思った。焼いている間にクッキーが割れてしまうことを恐れすぎて幻覚でも見たのかと。
 だが違う。たしかにクッキーをつついた僕の指の下でこいつは割れた。しかし元に戻っているのだ。
 しかも、増えている。
 最初に焼いたときと同じ大きさのクッキーが一枚、ちょうど割れ目のあったあたりのところにポンと出没しているのである。
 僕はポケットを叩くとビスケットが増える古い童謡を思い出した。そしてそのまましばらく、ぼうっと突っ立ったまま謎の巨大クッキー塊と向かい合っていたのである。
 
 
 その頃僕はまだ知らなかった。
 この一枚のクッキー・コアが、まさかあんな自体を引き起こすことになるなんて――。
 
 
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