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日陰の人

 昔、ひどい闘争があって、素人が教科書を見ながら混ぜ合わせたような爆弾がこの階段まわりにあったバリケードを跡形もなく吹き飛ばしていた頃、この奇妙な壁の染みは生まれた。染みというより、焼け跡だろうか? それは見るからに女の姿をしており、壁に黒く焼付いている。ここは大学の二棟の跡地が道路になって、今彼女は半分地下鉄へ向かうところの壁に追いやられて、手摺のあるタイルの上のほうから、改札へ向かう角のところを行ったりきたりしている。風の吹き溜まりになるせいで、ゴミや落ち葉が溜まって、しかも清掃の管轄の国境にあるせいでまともに手が入らず、腐臭なんかするもんだから、人はほとんど通らない。彼女はたいがい、斜めに階段の段差へ差しかかった壁のところに座り込んでいる。たまに、道路のすぐそばのところまで登ってきて、車の通り掛かるのに合わせて髪の毛を震わせてみせたりする。それは、本当に風の煽りを受けているわけではなくて、人間があえて人の前でチョットわかりやすく振る舞ってみせるようなしぐさの一種のようで、たまに間違えて風圧と逆のほうに髪を靡かせて「あっ」というようにごまかしで手櫛をやってすたすたと地下道のほうへ戻っていったりもした。
 十一月の白昼だった。冷たい木枯らしがビルの谷間で勢いを増して吹き付けるビジネス街を、彼はビニール袋片手に小走りで駆け抜ける。赤信号で止まっていた乗用車に続いて市営バスが走り去り、再び通りは静かになった。台風の目のように静まり返った大学通りに背を向け、彼は地下道への階段を下りる。道は暗く、溜まった落ち葉や、ビニール袋や、形を成さない紙ごみが劣化し、溶けて、黒い水たまりになってスニーカーの底に纏わりつく。真っ白な昼間の太陽に照らし出されてなお、薄汚れた地下道はより暗く濁り、霞んで見えた。しかし彼は気にすることなく、腐った枯葉やヘドロの悪臭が漂う踊り場に走り込み、しゃがみこんだ。そのまま持ってきた袋を開け、中に入っていたコンビニ弁当を掻き込んだ。
 通りがかる人間はいなかった。階段を降り切れば、地下鉄に入れる大きな地下道へ辿り着く。しかし第二棟を移転で失った大学通りに有用性は無く、やがて道路に整備の手が入ればついでにこの小さな地下道も埋められるだろうと噂される。腐臭とホームレスの巣窟はビジネス街には必要ない光景だった。
 彼はずっと下の平坦な場所に昔かたぎなバリケードを張って夜を明かす人々と関わり合いになる気はなく、しかし雨を凌げる場所を持っていなかったので、階段の住人になった。階段の住人は、彼と、壁の女の二人だけだった。壁の女は、女の形をした黒い染みであり、地下道の壁を自在に歩き回っている。彼が駅前のコンビニの裏からほとんど黙認的にいただいてきた弁当を食い漁っていると、女はふらっと現れて、顔などないが、おそらくこっちのほうを見ている。彼が「食う?」と聞くと、「なにいってんの」とばかりに首を横に振って、走って降りていってしまう。しかしまた、ぼうっとそこにいると、ふらりと現れ、目の前の壁に立っているのである。
 声をかけても、声を返してくれるわけでもない、取るに足らない染みだった。
 彼は冷えきった海苔弁と鮭弁を香の物の一片から飯粒、魚の油まで残さず舐め取ると空になったプラ容器を乱暴に袋へ戻し、おもむろに階段を降りた。軽くなった袋を片手で振り、重い足取りで下の連中のこさえた道幅を半分ほど占領した昔かたぎなバリケードのいくつかを越え、駅へ向かう大きな地下街の非常階段に出る。すぐそばのコンビニのゴミ箱に空ごみをぶち込む。そして蛍光灯のまばたきを受けながらもなお暗い非常階段を振り向き、やめて、改札へ向かって歩き出す。入場券で入って、ホームへ下りて電車を待った。階段のところでぐずぐず溜まっていた金茶髪の青少年がどっと引いた。彼は立ち止まらず、ホームの奥まで歩き、自販機の隣に落ち着いた。人が離れていく。あの地下道の臭いがいつの間にか自分の芯まで染み入ったのだと理解するまでには時間がかかった。近すぎるものは見えないのだ。
 やがてにわかに人が増し、ホームに列車が雪崩れ込んできた。彼の目の前を電車が通り過ぎた。すると、少し向こうの、人垣の奥のほうで、何かが起こったという感じがした。何が起こったのかが見えなくても、人ごみの動きで何かが起こったことは理解することができる。零コンマ数秒後、電車が通過すると、ドスン、ベリッ、と音がして、列車は不自然に減速した。キャーッと人ごみから若い女の悲鳴が上がった。笛がピーと鳴って人が下がらされた。ガヤが強くなり、暗くフォーマルな服装の人々は電子掲示板を、明るくカジュアルな格好の人々は携帯電話をとっさに見つめた。
 彼はドスンが起こる直前に、人ごみの向こうへフワッと浮き上がる人影を見たような気がした。それはあるいは、彼が直後に、感じただけの異変をそういう風に脳内で編纂し、見たつもりになってしまっただけなのかもしれなかったが、ともかく彼の見た人影は、察する限りは暗い顔をしたサラリーマンの男だった。彼は鉄のダイヤを乱した重罪人として、これから数百人に呪われる。
 お兄さん、良かったね、女がキャーって言ってたよ。俺もああやって死ねば良かったな。
 彼はホームの階段を昇り、いち早く別のホームへ向かった。

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