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物患い

 煙草屋の裏に繋がれている犬はいつも飢えており、家の者以外が敷地に近づくと凄まじい勢いで吼え立て、立ち入ろうものなら噛みかかってくるため、多くの新聞配達員がこの家の内ポストに辿り着くことに挫折して新聞は毎朝垣根の上に引っかかっているし、郵便屋はこの賢い駄犬に噛ませるためのプロテクターを考えなければならなかった(彼は差し伸べられた棒なんかには見向きもせず、適格に人体をねらって噛み付いてくる)。
 彼が排他的になる理由が月子にはよくわからなかった。餌は充分以上に感じるぐらいやっているはずなのに(これはいつも彼女の当番だった)、なぜ郵便配達員のコートの袖を喰いちぎらなくては気が済まないのだろう? 思うに、それは祖母の人嫌いを重んじる故の……いや、ゲンがそんなに賢いはずがない。犬知能偏差値が割り出せるならDQNど真ん中に間違いない。未だに月子の手を餌ごと噛み千切ろうとして容赦なく鼻をぶん殴られ、このうら若き飯やりの姉御に尻尾を垂れて明日の餌の保障をなぐさみ得なくてはならない食い意地っ張りが、そんな気の利いたことをできようはずもない。ただこの家の中は、表に面した薬局兼煙草屋の軒先から裏のちゃちな門まで、すみずみまで祖母の威圧、存在感、匂いが染みついているという感じがして、ゲンの頑なさもそれの影響を受けていないとは言い切れないと彼女は感じている。そうだとすればおそらくゲンはあの魔女のおそろしい魔術の支配下にあるというだけのことだろう。そうに違いない。
 月子はこたつの中でゲンがまた哀れな獲物の袖をグリグリ喰いちぎっている音を聞いていた。寒い冬は水曜の朝だ。郵便物が届かないといろいろ生活上面倒なことが起こるので(電気代を払い損ねたりとか)、彼女は重い腰を上げて庭に出た。案の定、ゲンは禿げまみれの巨大な襤褸雑巾のような身体をめいっぱい使って郵便配達員の左腕をまさに喰いちぎろうとしているところだった。しかし相手はそれをもろともせず、眉を若干困った方向に曲げて立ち尽くしている。やがて理由は知れた。ゲンが手袋ごと袖を引き千切ると、彼の鋼鉄の左腕が露わになったためだった。ゲンは一目散に小屋のほうへ駆けて行き、配達員は自由になった左手を撫でながら白い息を吐いた。
 つっかけを鳴らした月子と目が合うと、彼はいくつかの手紙を振って微笑んだ。
「郵便です」
 左目の赤い男だった。瞳が赤いのではなく、充血しているのだ。白目は罅割れたように浮き出す血管に包まれ、ほとんど腫れ上がっている。物患いの目だった。
 月子はちらっとそれを見ると黙って手を伸ばした。
「丈夫ね」そして歩いて近づいてきた彼から便箋を受けとりながら言った。「その手」
「ああ」彼は己が左手を見た。握ったり解いたりするたび関節の駆動が組織立って彼の指へ本物に見劣りしない動作を与えている。「こいつは特別丈夫なんだ。俺が爆弾で吹き飛んでも、こいつは丸ごと残るってぐらい」
「高そ」彼女は素早く手元の便箋を確認した。生活諸事以外に私信が一つある。祖母宛てで。
「めちゃくちゃ高いよ。トメニア製、TCラベル後続25型B、六段変駆、セルフ整備可モデル、俺は向こう三十年はこいつのために働かなくちゃならない」
「ふうん」月子は興味なさげに言った。「ところで、うちで袖食われた人は上がってかりんとうを食べながら少し短くなった袖が多少見栄えを取り戻すのを見守るしきたりなんだけど、どうする?」
「しきたりならしようがないかな……おばあちゃんによく言われたんだ」郵便屋は神妙に帽子を取った。フェルトの制帽に押し込められていた癖毛が静電気で逆立った。「”郷に入っては郷に”……」
「んなもん糞喰らえって奴もいる。国民の義務ぶっちぎったりとか」
 月子はぺろっと唇を舐めて、勝手口を開けた。
「税金払ってないの?」
「あたし、高校生」
 水曜の白昼のことだった。

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