忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

杏ノ丞、死す



 オドロシ出版は景気のあぶくに乱立した吹けば飛ぶような有象無象の出版社のうちの一つであり、安い紙(それはもう、殆どのページが藁半紙だったりする)で多くの場合検閲に塗り潰されるスレスレの情報を、とにかく数打ちゃ通るといった具合にいくらでも並べ立て、粗雑に大量印刷するまさにカストリ屋そのものといった具合の店構えであった。記事が揃えば不定期に何度でも印刷されマンボウの卵のようにメディアの大洋に流れ出していく「奇譚奇猟」は、出版業界飽和のこのご時世に置いてはその暦の長さだけで売り上げを維持しているまるでそこにそれ当然とあるからには気乗りでなくとも手のつく「連れ添う妻のまずい味噌汁」じみた冊子である。編集長、兼記者、兼アドバイサー、兼営業、兼電話番、兼スカウト、兼社長の恰幅のいいはげと、編集兼記者兼雑用係の社員二名、そして下町に蠢く無数のヤブ記者ども。これらによって自転車操業されているわけだった。
 さて、かくいうオドロシ出版の、ほとんど鉄骨剥き出しのアパートメントみたいなテナント、錆びたホーロー看板に名の記されているのさえなければ人が住んでいるのかさえ怪しいその建屋のぎしぎし軋むドアを開け、一人場に合わぬ紳士が姿を現した。
「何や、ここの記者はやたら知っとったなぁ」
 老舗っちゅうだけあるやろか、と一人ごちる。長い髪を後ろに束ね、こつこつと高い踵を鳴らして歩く姿は実際劇場にでも赴きそうな風体だが、彼女が、否、彼が今踏んでいるのは赤絨毯ではなく錆びた鉄板を打ってあちこちに補強のなされた外廊下である。
 彼こそは天照文藝界の重鎮匙谷小唄、またの名を"荒神"小唄である。彼の目的は、情報を押さえることだった。それは昨今巷を賑わせてやまない荒神雷蔵内閣総理大臣に関する"根も歯もない噂"の伝播を防ぐということでもあり、また奪い取るということでもある。既に数社、似たような廃屋を潰してきたが、ここはなんと写真――荒神雷蔵総理が車に押し込められる瞬間を激写した、質の悪いコピーの出回り続けるそれの「ネガ」の一部を押さえていたのだ。手書きのメモをちらつかせながら、焦点の合わない目で綴薬を求める汚物じみた禿爺から引き摺り出した。彼はそれを覗き込む。間違いない。あのうちの一枚だ。
「どうやってこんなん……」
「おい」
 突如聞こえた声に、小唄はゆるりと振り向く。
「何を突っ立っておる。邪魔だ。道を開けろ」
 立っていたのは男だった。ざんばらの長髪から着物から背筋から根性から何まで乱れきった具合のだらしない姿をしているが、態度は不相応に大きい。
「お兄ィさん、どなた? ここの出版の人?」
「そうと言えばそうなる。言わねばそうではない。中に入ってみるまでそれは吾輩にも分からんのだ」
 言うと、彼を押しのけて中へ入ろうとする。
「ちょい待ち」
 小唄は男の前に立ちはだかった。今中に入って貰うわけにはいかない。そこには死屍累々の編集たちが泥沼のような悦楽を流し込まれて痙攣しているのだ。
「ブン屋さんやね。タレコミにでも来たん」
「ブン屋? ふん……吾輩がそんなもので収まるような器に見えるか!」
 突然拡声器のボリュームをいじくり損ねたかのように男の声がクレッシェンドしたのでのらりくらりと構えた小唄もさすがに少し驚いた。というか引いた。
「吾輩こそは!! 不遇の天才作家、杏ノ丞(あんのじょうきょうのすけ)である!!! 金はまだない!!! 今まさに貰い受けに来た!!! 今日までで合計八百四十圓……おそらく今日の交渉で吾輩は総計千圓にもなる金を手にするだろう!!! くッくッくッ……阿ァーーーッはっはっはっはっは!!!!」
「…………」
 少しどころではなかった。ドン引きした。
 だがそれどころではない。金を貰い受ける……ということは語気に関わらずおそらくなんらかのネタを持っているに違いない。それもこんなドン底の出版社から千圓もの金を引き摺り出すような、金の鵞鳥……旬のネタを。
「つまるところ、ネタ売りに来はったんやろ」
「まあ端的にはそうだ」あっさり認めた。
「あんな……ここだけの話、僕ァ同業やねん」小唄はにんまりした。「当然もっと大きいとこに所属しとるんやけどね、よかったらそのネタ……もっと高う買うで」
「ほう?」杏ノ丞は眉を吊り上げた。なるほど食いついたのだ。「いくらで」
「三倍」
「……いいだろう、貴様の所属はどこだ?」
 完璧な流れだった。あとは自然の流れで、メモの上に適当な文字を書いて出すだけだ。小唄は今書くわ、と言ってポケットからメモとペンを取り出し、その上に「そのネタ見せてみい」と書いた。
 顔を上げると杏ノ丞はいなかった。
「!?」
「おいクソ親父! 続きを持って……」彼は既に扉を開き、ナメクジのような動きでその中に滑り込んでいた。そしておそらくその惨状を目にした。
「なァアアアアアアンじゃこらアアアアアアアアア!!!!!!!」
 小唄は舌打ちして扉に飛びついた。だが開かなかった。杏ノ丞が咄嗟に後ろ手に閉めたのだ。
「貴様か!!?? 貴様がやったんだな!!!??」
「ちゃうわ!!! 僕が来たときにはもう」
「こんなモン見た一般人が暢気に盗んだネガなんか眺めていられるか!!!!! 盗人でも入ったんだろうと思ったがまさかこれは完全にアウトだぞ!!!!!」
「チッ、勘のええ奴は早死にすんで」
「んな小奇麗な格好でヒール履いてネタ垂らしにくる記者がいるかバーーーーカ!!!!! 少しはましな嘘を吐け!!!!!」
 小唄はドア越しにノブの引き合いをしながら逡巡した。このやたら騒がしい目撃者をどうするべきか? 応援を呼んで処理するか、このまま押し切るなり、揺さぶり落とすなりするか、もしくは……それとも……
 と、考えを巡らせていた刹那。
 ドアが逆に押し開けられた。ノブを引いていた小唄は当然、勢いのまま後ろに倒れかかる。バランスが取れない。たたらを踏んで仰け反る。鉄板の足場がガンと軋む。半分宙に浮いた身体に飛びつくように男は突っ込んでくると、そのまま小唄の身体をヒョイと持ち上げ、肩に担ぎあげた。
「!!!?」
「阿ーーッはははははははははは!!!!」男は高笑いを轟かせた。「現行犯だ! 現行犯ったら現行犯! 現行犯なら一般人にも逮捕できる! ふはははははは逮捕だ!!!! ふはははははははははは!!!」
「な、な、何……!!?」
 何どころではなかった。もはや彼は小唄をしっかと肩上に抱えたまま歩き出していた。
「感っ謝っ状~♪ 謝っ礼っ金~♪」
「はァ、離さんかい!!! 触るな!!!」
 俵めいて担ぎ上げられた小唄はほとんど天地逆のまま、能天気に鼻歌なんかしやがる野郎の腹に向かって思いっきり膝を入れ、染めの落ち切った浅葱木綿の背中をドンドンと叩いたがびくともしない。
「無駄だ!!!!! 吾輩はほぼ週一のペースで門前に倒れ伏した成人男子二名を二階まで担ぎ上げる作業に勤しんでおるのだぞ!!!!! 貴様のような細っこいのがいくら暴れようが無駄ッ!!!!!!」
 身の丈は下駄やヒールを見積もっても小唄のほうがあるはずなのだが、杏ノ丞はゾッとするほど丈夫だった。
「くうっ……離せっ!!! 離せ……」
 小唄は一歩のたびぐらんぐらんと背中に揺られながら唇を噛み締めた。身体を捻って膝でも入れてやろうとしてもドンと肩で担ぎ直され腰を打ちつけるだけで二進も三進もいかない。それでなくても音のなるほど殴っているというのにどこ吹く風で男は路地を抜けていくのだ。小唄にとってはこれ以上の屈辱はなかった。住宅街は閑静だ。悲鳴を上げてやるか? だがそれは矜持が許さなかった。喚く自分の口から出てくる声さえ彼には鬱陶しかった。それは如何しても女の声をしているからだ。ゆえに彼は黙々と抵抗した。
「あの出版社はな」
 男は小唄が口を開かなくなると、不意に切り出した。
「不条理と不健全、不義理に不可思議を信奉した或る男の情熱の、ひとつの成れの果てだ。定めるべくに不の字の欠かせぬような概念のために、男の闘いはマンホールの穴ぐらの下から始まった。検閲を潜っては書き散らし、ガリ板で手ずから刷ったビラを撒いたのが奇譚奇猟の始まりよ。あの糞狸が界隈でやたらと持ち上げられるのもそれ故だ。まあ貴様のような上流の人間には縁遠いだろうが」
「はぁん」小唄は逆さ吊るしのせいで血が上って霞んでいく頭を必死に巡らせながら言った。「せやから仇を討つ? ……見してもろたけど、あの冊子からは思想なんかこれっぽっちも感じへん。雑な噂煮込んだだけの闇鍋やった。あんなもんのために僕を捕まえる? 僕が何したか見たんやろ。蟷螂の斧って言葉知っとる? 自分がどこに喧嘩売ろうとしてるか、分かっとるん?」
「分からん!!!!!」即答だった。「そして仇を討ってやるほど吾輩は連中に肩入れしていなァい!!!! 吾輩の欲しいものはな、それは金だ!!!!!! 報奨金!!!!!! 貴様を交番に突き出してタンマリ謝礼をせしめる。無駄打ちになったネタの分もな!!! 阿ァーーッはっはっはっはっは!!!!」
「じゃあさっきのは何だったんや……」
「ただの独白だ。コンセプトは"有意義かつ無意味"」
「もう僕ァ君とは二度と口利かん」
 だがそういうわけにはいかなかった。チャンスが巡ってきたからだ。
「今の高笑いどっちからだ!」
「あっち!」
「ああおった! ってあああああ! アンノジョーが人抱えとる!」
「わーほんとだー」シャッター音。
「営利誘拐やないですか! いくら金のためでもそれはさすがに逮捕や」
「杏ノ丞さん……ついに……」
「激写」
「おいちょっと待て」
 駆けつけたのはカメラを抱えたアトリ、そしてでかでかと『我食う故に金なし』と書かれたTシャツにスウェットを羽織った墨、そして息を切らして杏ノ丞に生温かい視線を送る烏だった。
「そもそも何故お前らがここに」
「スズさんが『ぴっぴー(杏ノ丞がまたなにか厄介事を企んでるっぽい)』ちゅうてたんで、金が絡んでるってアタリ付けてあわよくばと思って決死の覚悟で外に出てきたんですわ、ひー溶ける死ぬアンノジョーに何か奢らせんで帰れへんわ」
「そのアクティブさをネタに出せ、ネタに」
「私はついでに何か撮ろうと思って」
「墨さんと三々さんだけだと心配だったのでついてきました」
「うむ、わかったわかった。ではこいつを交番に引き渡してから謝礼金で何か食おうではないか」
「え? アンノジョー自首するん?」
「違うわ!!! 犯罪者は吾輩ではない、こいつのほうなのだ。盗人にしてテロリスト! 言論の自由への挑戦! まあ現行犯で逮捕だ」
 言論の自由……背中ごしに杏ノ丞の言葉を聞きながら、小唄は自分と検閲課のやりあいを思い出してせせら笑った。
「杏ノ丞さんが奢るなんて明日は槍が降りそうですね」
「奢るとは言っとらん。貴様らは自分の金で食え」
「あーいつも通りだった」
 肩に人を担いだまま世間話をする連中の異様な光景は、白昼の住宅街の道路である。片側一車線、歩道の数メートルごとに街路樹が風に揺れている。車通りはなく、人も今はいない。この時間帯では国道の裏道にという車もさほどないのだろう。それでも決して元よりまったく車の通らないような道ではないので、誰も気が付かなかった。今まさに角を曲がってきたトラックが異様にふらついていることに、それが四人と肩の上の一人から十数メートルと離れない駐車禁止の交通表示を弾き飛ばすまでは。
「あっ」
 と、誰かが言ったときには、既にそのトラックは歩道に乗り上げ、街路樹に車体をぶつけながらこちらへ向かって突っ込んでくるところだった。
「危なっ――」
 トラックの質量的な鼻面に竦んだアトリと鳥の手を引いて、墨が真っ先に動いた。進行方向を逃れて車道に出る。杏ノ丞はピョンと飛ぶと下駄を蹴り捨てて裸足で中央線に着地した。トラックはガガガガガガと車体をコンクリート塀に削りながら暫く歩道を走り、次の街路樹を回って車道へ戻った。
「な……」
 道に引き倒された鳥はバクバク打つ胸を押さえて今まさに交差点で無茶苦茶なUターンして戻ってこようとするトラックのタイヤ痕を見ながら茫然とした。
「何やアイツ……」
「ふむ、おい肩の、お前の仲間か?」
 その時、杏ノ丞が飛んだときに上体の浮いた小唄は思い出していた。ベストのポケットにペンが入っていたことを。手に取る。そして、
「知らん……なあッ!」
 それを思いッきり、杏ノ丞の背中に突き刺した。
「痛だぁッ!!!??」
 肩甲骨下にふかぶかとペンを突き立てられた杏ノ丞の怯んだすきに小唄は力いっぱい身体を捻ってその拘束から脱し、弾みで地面に肩からしたたか打ち付けられた。杏ノ丞は激痛に蹲り、その隙に小唄ははっと後ろを振り向く。状況はわからないが、襲撃されている。しかも自分ごとだ。特高側がこんな杜撰なことをするとは思えないが、まだ何ともいえない。誘拐そのものも杜撰と言えば十分に杜撰なものだったではないか。彼は逡巡した。どうする? 立ち去るか? だが少なくともこの男にはばっちり顔を見られているし、トラックの狙いが自分だったら状況は最悪だ。
 とかなんとかしている間に再びトラックが迫る。
「三々さん!!!」
 車道上にばらけた五人のうち、烏と三々をかすめるようにトラックは大きくカーブしながら突っ込んできた。烏は咄嗟に三々を突き飛ばし、自分も地面を転がるようにしてトラックを避けた。トラックはガンと運転席の側面で電柱を叩き揺らし、そのままふらふらと速度を緩めもせず走り去り、角を曲がって消えた。
 そして静寂と、揺れる電線、タイヤ痕だけが残される。
「……兄ちゃん、やっぱり、そのネガ捨てたほうがええよ」
 小唄は身体が固くてなかなかペンに手が届かず海老反りしている杏ノ丞に歩み寄って言った。
「ふぬぬぬぬぬぬ取れん……捨てたほうがいいだと? 何故だ?」
「何故って……」もう小唄は呆れてものも言えないという顔をしていた。「今の見はったやろ。あれ、たぶん狙いはそのネガや。もしくはそれを知っとる全員」
「そうかな」彼は背中にペンを突き立てたまま立ち上がり、膝を払う。「そうだろうか……」
「せやから、渡して」
「それでも渡さん、と言ったらどうする?」
 小唄はため息をついて、数歩戻り、側溝の傍で「カメラぶつけちゃった……」と意気消沈するアトリの傍に寄って、そっとその背中に沿うと、後ろから抱きしめる。
「このお嬢さんが……出版社の連中みたいになるんが、見たい?」
 アトリは頭の上に疑問符を浮かべたが、まだ手はカメラを撫でまわしていた。
「えっ……」
「おっと。ギャラリーさんも動かんでね。この子がどうなってもええなら、ええけど」
 小唄は立ち尽くす墨と烏に向かってにっこりとほほ笑んだ。
「さ、どうする? 僕の薬はよォ利くで。見たんなら、分かるやろ」
 杏ノ丞は不精髭の浮いた顎を撫で回しながら、懐に手を突っ込んで、何かを考えているふうなそぶりをした。
「……正直ちょっと見たい!!」
「す、筋金入りの下衆……」小唄は明後日のほうを向いてげろげろと顔を青くした。
「だが貴様の思い通りに事の進むのは吾輩の性に合わん。それにしてもさっきのトラックは……」
「ええからはよ渡し! ネガ!」
 そこでようやく、不穏な音が全員の鼓膜の底にも届いた。ガリガリガリガリ。何かを擦りながら、大きなものが無理やり迫ってくる――
「ああ糞!!!! 馬鹿が!!!」
 杏ノ丞が仁王立ちから突然にして足を捲り、韋駄天のごとく突っ込んできたので、最初の不意打ちを思い出した小唄は怯んだ。「馬鹿はどっちや!? こっちは――」だが彼は止まらず、そのまま三々と小唄の胸倉を両手で掴み上げると「あれの狙いは三々だ!!!」二人を力の限り投げ飛ばし、不格好に絡み合って二名が街路樹の足元にもつれ落ちるのと、背後の狭い路地からさっきのトラックが再び突っ込んでくるのが同時。
 ブレーキ音もない。サイドミラーを破壊し、道幅ぎりぎりの車体を無理やり通して飛び出す。跳ねる。そして黒い影法師を巻き込んで、トラックは真っ直ぐ突き進み、反対側のビルを取り囲む石塀に轟音を撒き立てて激突した。地震めいて地面が揺れた。左右のブロック塀が一瞬遅れてばらばらばらばらと崩れ落ちる。杏ノ丞の姿はない。
「あ……」
 トラックは激突の勢いでビルの壁に沈み、後輪が若干浮いてからからと空回りしていた。濛々と巻き上がる黒い土煙。その向こうへ徐々に見えてくる、土壁に飛び散った鮮血。
「あんのじょー……?」




 お願い、死なないで杏ノ丞! あなたが死んだら、滞納している家賃はどうなっちゃうの? 金の鵞鳥はまだ残ってる。ここを乗り切れば、謝礼金が手に入るんだから!
 次回、『杏ノ丞死す』。デュエルスタンバイ!




(続きます)




 


PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

Copyright © あっ死んでる : All rights reserved

「あっ死んでる」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]