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帝都は快晴



『サア選び給え。一には雨露に膨れ軋んだ木扉。二には赤錆に封ずる鉄扉。三には叩き壊された硝子窓。(中略)
 然し我輩は第四に、この腐りかけた壁を打ち壊してゆくとしよう』
 ――片村椰次郎『劇場』一幕より



 花の帝都西京よ! 西端の離れ小島に咲く一輪の大花! 吹き込む欧州気風の温気に萌え出ずる西亜文化の芽はといえば、かの神田町にもポッポと吹いて見られた。詰まり行き交うハットを乗せた洋装の紳士に然り、彼の見上げる鉄筋仕込みのビルチング然り、其の看板に微笑むシャンソン歌謡の流行娘然り、自転車を駆る文士青年の抱えた洋かぶれの思想書然り。
 皐月晴れは午後四時の煌々とした日差しの下に、片村次郎青年は書一式を抱え、一心不乱とペダルを漕ぎながら、神田川を越え、靖国通りを東に向かっていた。通りがかりにいつもの書店の店番猫が顔を擡げ、袴の裾を靡かせながら次郎の駆け去っていくのを送ってまた眠る。一等詰襟の学生服の集団を横切って角を滑るように曲がり、通りの一本先は静かなシャッター街である。先の恐慌の煽りを受けて新興老舗に区別なくばたばたと潰れていった書店の名残はついぞ古紙の香りばかり也、とはいえ次郎は自転車をダンとシャッターの前に置き捨てると、うち一つ、古扉の奥へ仄かに火を灯した一軒を覗いた。
「いらっしゃい」
 カウベルの音を潜れば、そこは廃屋じみた佇まいに古本を詰んだガレッジである。店主は奥のカウンタへ背中を丸めて座っている。
「翻訳本です」次郎ははにかみながら、薄暗い店の――店というよりは本の担ぎ込まれた部屋といった具合だが――奥へと歩み寄り、肌色の表紙の二冊をドンと目前に置いた。
 店主はそれを審美して曰く、「連邦のじゃあないか。よく持って歩いたもんだ」そして丸眼鏡の奥でにやりと笑う。「一丁前にセドリ屋気取りかい」
 それには次郎青年もにっと笑って返すより他ないのである。
 彼は既に幾店もの古書店を股にかけ、無類に本を取っては専門書店へ直しすがらに代金をかすめる確かに一丁前であった。それもこれも読書狂いの高じてであり、事の始まりは叔父の別荘で出会った巨大な書架であったが、その広大な背表紙をひとすくい手に受けて以来、実際彼は留まるところを知らぬ本の虫と化した。ふとしたことでついついこの物言わぬ文字どもを求めてしまうのは、あるいは飢えにも等しく、遠くは脳髄の荒野の遥か遠くより何かを探しているような心持ですらあった。脳座の下のほうへいる虫のようなものが、なにものかで埋めでもしなければ今にも彼を食い潰しかねんといったような具合である。それが実際何であったのか、彼が知った、否、思い出したのは近頃のことであるのだが。
「おい」
 そこへガランガランと再び戸が開き、入ってきたのは学生服に身を包んだ大柄の青年であった。次郎は驚いた。先ずはこの店を尋ねるのが自分以外にあったものかというので、次にはその顔が見知ったものであったためである。
「やあ、佐野山君」
 山のように肩の張った猪首の彼は、次郎の古い馴染みであった。同じ下町に生まれ、昔にはよくいじめられもしたような感じがするが、今はすっかり単に学徒然として、目の前の男はしっかと立って懐かしげに笑っている。
「おい、おい、次郎かあ。やっぱりなあ。自転車で通りがかったのを見たもんで、つい追いかけてしまった」
「なんだい、態々すまないなあ」
「気にするな。随分前から会っていなかったから、少し気になっていたんだよ」
 佐野山はさる弁護士の息子であったが、怪事件のために悪評の立った宅地から逃れ、世田谷に移ってしまったのである。
「どうして君が神保町に?」
「それがな……」彼は突然、ごつい顔を真剣そうに固めた。「歩きながら話せないかね?」
 次郎は店主を振り向く。
「今、ツテに需要があるもんだから、少し融通しよう。次郎君」店主は封筒をそっと差し出した。「またよろしく」
「はい、ありがとうございます」
「それとねえ、例の同人誌の、君の話、とても良かったよ。もう書かないのかい?」
「ああ、あれは……」次郎は人の誘いで手習いに書いた掌編のことを思い出した。日記をつける癖のある次郎にとって文筆は慣れ親しんだものだが、フィクションに手を出したのはあれが初めてであった。講評は芳しくなく、彼は辟易したものである。「もう遠慮しますよ」
「そうか。勿体ない」
 ともかく二人の学生は店を出た。そうして大通りに戻りすがら、昔話にチョットした花を咲かせた。それとはいえ次郎は佐野山に(世話焼きであったことは認めようが)それほどいい思い出がないので、早々に切り上げになってしまい、やがて九段下に差しかかるころになると、話は核心に切り込もうというところだった。
「今のところ、例えば磐倉に勤める会社員の手取りは、月に六千圓を超える」
「ウン」
「ところが地方を見てみれば、千圓のために百姓農家が娘を売り飛ばしているわけだ」
 これは実際社会現象で、次郎の耳にもそういう都市と地方の格差が生んだ痛々しい話がある程度入っていた。
「これはどうすればいいと思う、次郎」
「どうすれば、か」
 次郎はふうと上を見た。空青く、罫線じみて電気線が度々とある。上の空に書きつけて、要するに佐野山の真意は如何にということだ。
「格差を無くすために、というわけだね」
「そうだ。その為に……俺は今のままではいけないと思う」
「と言うと」
「荒川さ」
 佐野山が言って向こうを見、次郎がそれに合わせて大辻を見通すと、外堀通りの区役所前には黒山の人だかりが有った。
 沿道をわんやと車道に零れんばかりの人が行進しているのだ。手に手に看板を、標語を掲げ、先導の掛け声にオオーッと地響きのような賛同を上げる大衆は何百人連なっているだろうか! 黒い頭の揺れる波よ! 最中燦然とそよぐ旭日旗の威風堂々よ! 先頭中心には軍服の女があった。制帽に溢れんばかりの黒髪を颯爽と靡かせ、肩で風を切り行くのだ。さらに声を張り上げて曰く、「政党腐敗の留まる処を知らず! 以て是を天神王御君の御前に晒し給え!」怒号!「天照皇君王道の名の下! 君側の奸を今ぞや退け! 大政を奉還せんと!」「維新!」「維新を!」嗚呼無数にうねる人波の! ひとつ生命めいて咆哮するのを! 特高のサイレンが遠くから追ってくるのが聞こえる。
「あれは」
「デモ隊だ。荒川から下ってきて、神居を回って戻っていく」
「まさか君は、あれに参加しているのか」
 佐野山は頷いた。
「改革しなければ。国民が窮しているってのに政治屋はみんな連邦とベッタリで泥沼のようじゃないか。今のままじゃあとても列強には勝てない。おれは天照を焦土にはしたくない」
 次郎はハッとなった。焦土……。
 それがハッキリと脳裏に思い描かれたのは何時ごろだろうか? 喉奥へ張り付いたようになって、もしかしたら生を受けた時分からずっとそこにあったのかもしれないが、彼はとにかくそれに出遭った。
 云わば面影。云わば憧憬。俗には"前世"。
 戦友を預けた艦隊の次々と傾いてゆくのを見届けた己の感情は思い起こせない。只思うのは帝都"東京"の……愛した神田の町……。
「お前はどうする?」
 ふと見ると、佐野山は言い残して、デモ隊へと合流しようとするところだった。どうする? どうするだって? 嗚呼。
 次郎はぼうっと目の前を流れていく溢れんばかりの行軍を眺めていた。如何するだなんて。思えば指図のままに暮らしてきた。階段を上るように年を重ね、彼が愁うのは精神の虫のみであり、他者に対してどうあれと思ったことはなかった。なんと……あの人を物のように扱った佐野山よりも、一国民として劣りやしないか。
 などと思うのも束の間。
 彼はその場に釘づけになった。雑踏と怒号を響かせ流れていく示威行進の流れ、今や特高にぞくぞくと囲まれつつある彼らの中に、一際輝く日の丸旗、その持ち手。背筋をぴんと伸ばし、腹前に礎を置いて旗を握る彼女は。
「しいな」
 欠席したんじゃなかったのか。そうか……。


 それが次郎青年と荒川デモ隊の、初めての邂逅であった。眩しく紅白の旭日旗のはためき轟く、帝都の空は快晴だった。



 
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